柳家右太楼さん―2


「噺に”今”を入れることはしないですね。 古典落語の力を信じているので」
右太楼 それは全くなかったですね、おたがいに。僕の第一印象なんか、すごく悪かったらしいんですよ(笑)。「まさか結婚するとは思わなかった」って、今でも言ってますから。
――それじゃ、卒業直前に一緒に落語会に行かなかったら、落語家になってなかったかもしれませんね。奥様が背中を押してくれたんですもんね?
右太楼 そこは、かみさんのおかげですね。
――結婚はいつごろ?
右太楼 二つ目になってすぐ。入門する前はかみさんは名古屋、僕は東京にいたので、月1回ずつ僕が名古屋へ行って、彼女が東京へ来るという生活でしたね。前座になってからは彼女が月2で東京に来ていたんですが、運よく東京に転勤になって引っ越してきたんです。二つ目になって一緒に住む部屋を探してたら、「結婚してないと貸せない、同棲は困る」と断られて、それじゃあ、みたいな感じですね。
柳家右太楼
――奥様のご両親の反対はなかったんですか?
右太楼 特になかったですね。かみさんの実家に結婚を申し込みに行くと、おとうさんが名古屋弁で「まあ、幸せにしたってちょ!」って。90歳を過ぎたおじいちゃんとおばあちゃんが、興味津々でじ〜っと僕のこと見てましたね。かみさんの母親とは前座のとき、東京で一度会ってるんです。噺家だと言うと、「ああ‥大変なんでしょうねぇ。厚生年金とかもないんでしょ?」と言われたのは覚えています(笑)。
――権太楼師匠(※6)に入門したいと、いつごろから考えていたんですか?
右太楼 東京に来てからですね。師匠の落語が好きだったことと、僕はテレビに出るとかではなく、寄席に出られる落語家になりたくて噺家になったので、常時、寄席に出ている人に入門しようと思ったんです。
 落研時代にも師匠の高座を観ているんですよ。最初は先輩と夏休みに来た上野の鈴本演芸場で。鈴本は芸人もお客さんも出口が一緒なんで、先輩が噺家にやたら声をかけるんです。「師匠、お疲れ様でしたあ!」って。そのときニコニコ笑って「どうも」と出て行ったのが、うちの師匠だったんです。今から考えると縁があったのかもしれません。その後、蒲郡の会でも観て「すごく面白くて、やんちゃな人だなあ」という印象は持っていました。
 あとは、小学校から落研まで、1年上の先輩にかわいがってもらったので、兄弟子がいる一門がいいなと。→続き

※6 三代目柳家権太楼。1970年五代目柳家つばめに入門。1974年師匠の死去により、先代柳家小さん門下へ。1982年真打昇進。


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