二つ目さんインタビュー             鈴々舎馬るこさん―1

鈴々舎馬るこさん
「ハングル寿限無」「ハングル蝦蟇の油」など、古典をベースにした爆笑落語や、落語の中でギターを弾き歌いする「イタコ捜査官メロディー」などの奇抜な新作落語で着々と若いファンを増やしている馬るこさん。お笑い芸人時代を経て、馬風門下へ(※1)。高座名の由来や、師匠のもとから脱走したこともある、山あり谷ありの前座時代を振り返っていただきました。(脚注の大半は馬るこさん自ら加筆してくれました)
        (※馬るこ師匠が二つ目だった2008年7月のインタビューです)

「うちの師匠(鈴々舎馬風)は、毎週欠かさず
 談志師匠の番組を観て、げらげら笑っています」



――高座名がユニークですね。
馬るこ 師匠がその昔「かゑる」だったことにちなんで、最初「かっぱ」(川柳亭)はどうかと言われたんです。でも、一門の後輩は「尻子玉を喰う妖怪の名前だ」と嫌がって、誰ももらおうとしないんですよ。僕も「師匠のお名前から一字いただきたい。できれば、かわいい名前に」とお願いしたんです。僕の家庭の事情を知っていた師匠のおかみさんが、『母をたずねて三千里』のマルコにちなんで名づけてくれました。
――家庭の事情というのは?
馬るこ 父が事業に失敗し、母が宗教にのめり込んだりして、僕が18歳で上京したのを機に両親は離婚しました。大手電機メーカーの営業課長だった父は、スーパーを開業して失敗。その後、当時売れていた「禁煙パイポ」のニセモノの製造を、「絶対、売れる」と自信満々で始めましたが、これが全然売れなくて。最後は在庫をライトバンに積んで、広島の工場から東京の上野公園まで売りに来たらしいです。
――にせパイポで倒産したとき、馬るこさんはおいくつでしたか?
馬るこ 小学校入学の直前です。兄はかなりショックを受け、ふさいだ青春を送ったようですが、幸い僕はまだ「倒産」とか理解できない年だったので、お気楽な少年時代を過ごしていました。家が貧乏なのも「そういうもんだ」と思ってましたし。
――そのころから落語が好きだったんですか?
馬るこ お笑いが大好きで、中学のころから一度は東京で芸人として勝負したいと思っていました。落語はお笑いの勉強になるからと、テレ
ビやラジオの演芸番組で聴いていた程度です。
 山口県は十数年前までNHK総合・教育と民放2局の4チャンネルしかなく(※2)、お笑いの情報自体も乏しかったんです。九州や広島のフジテレビ系やテレビ東京系列の局が受信できた地域もあり、学校の同じクラス内でも情報格差がありました。高校の修学旅行で泊まった東京のホテルで、生まれて初めてフジの「月9ドラマ」(※3)を観たんですよ。みんなで食い入るように画面を見つめてました。
――上京したのはお笑い芸人になるためですか?
馬るこ 人文系の勉強をしようと、新聞配達の奨学金制度で大学に通いながら、ピンでお笑いライブにも出たりしていました。先輩はありふれたネタで笑いを取っているのに、自分は全然うけなくて。笑いを取るには技術が必要だと気づき、漫才、落語といろいろ観ているうちに落語の奥深さがわかってきて、もっと落語を勉強したいと思うようになったんです。鸚鵡返し(※4)のような作り込んだ構成は、3分、5分の漫才ネタではできませんから。
鈴々舎馬るこ

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※1 5代目・鈴々舎馬風。落語協会会長(08年現在)。武闘派。二つ目の柳家かゑる時代、TB
   Sのキックボクシングのリングアナウンサーを務めブレイク。その印象が強すぎるのか、今
   でも近所の居酒屋で弟子が飲んでると「おい、かゑるの弟子」と呼ばれる。
※2 日テレ系列KRY・TBS系列TYS。現在はテレ朝系列を加えて5チャンネル。
※3 「ビーチボーイズ」(1997年7月〜9月放送。出演は広末涼子、反町隆史ほか)。
※4 「時そば」「子ほめ」「牛ほめ」「看板のピン」など、仕込みがあり、それをまねしようと
   して失敗する噺。


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