古今亭駒次さん―2


「圓丈師匠に『新作をどんどん書きなさい』と声をかけていただいて勇気を得ました」
――志ん駒師匠を最初に聴いたのは?
駒次 2年のとき、池袋演芸場に圓丈師匠を目当てに行ったら、うちの師匠が出ていて。坊主頭で昔の顔したおじさんなのに、かっこよくて、さっそうとして、なんて面白い人がいるんだろうと。しかも、父が二つ目のころの師匠を好きだったらしいんですよ。(入門するなら)この人だと思いましたね。
――落語家以外の進路は考えましたか?
駒次 4年のときには決めていたので、就職活動はしませんでした。卒業前の1月末に浦和で出待ちして、手紙と履歴書を渡したら、「(弟子は)取らねえから。とりあえず海上自衛隊、行って来い」と言われたんです。自衛隊? もちろん行きません。
 何日か後に今度は上野(※7)の楽屋口で待ってたら、若手の兄さんたちと一緒にデリーというカレー屋に連れてってくれたんです。自衛隊のことなんか何も言わず、問答無用で一番激辛のカレーを注文して。噺家の世界では出されたものは絶対に残しちゃいけないんだけど、あたし、辛いの弱いんで食えない。朝太兄さん(※8)だったか、残り全部食ってくれました。 古今亭駒次
 「寄席とか通って」とアドバイスを受けて、師匠が出演するところはほぼ通いました。おしゃれなイタリアンの店で、小団治師匠(※9)との食事に同席させてもらったこともあります。何回か通ってるうちに、1ヵ月ぐらいで入門が決まりました。
――「食えないから、やめなさい」とかは?
駒次 言われました。絶対、食えないって。
――ご両親は反対しませんでした?
駒次 父も母も自分の好きな仕事して共稼ぎでしたから、何の反対もなく。今は(反対されるのは)少ないんじゃないですか。芸人が社会の最下層って時代じゃないですし。友だちには言われましたけどね、「食えねえじゃん」て。22歳ぐらいで、そんなこと言っててどうすんの、と思いましたけど。
――高座名の由来は何ですか?
駒次 師匠のおかあさんが駒次という芸者さんだったんです。それをいただいたんじゃないかと思います。見習いの初日に師匠の家に行ったら、半紙に「命名 駒次」って書いてあって、すぐ名前もらっちゃったの。ほんとに何の苦労もしてないです。1回、坊主にしましたけどね、しくじって。
――原因は何だったんですか?
駒次 全面的にダメだってことで。たいてい、そうだと思いますよ。師匠も我慢してるんで、積もり積もって何かのきっかけで爆発しちゃう。
――志ん駒師匠の一番弟子ですね。
駒次 師匠はずっと弟子を断ってたんです。志ん朝師匠(※10)が亡くなって心境の変化があったかもしれません。
――駒次さんは志ん朝師匠の孫弟子?
駒次 志ん生(※11)の孫弟子になるんですよ。寄席に通うようになってから志ん生師匠のテープ聴いたんですが、これも落語にはまった原因ですね。→続き


古今亭駒次

※7 鈴本演芸場
※8 古今亭朝太。1974年、東京都生まれ。98年に三代目・志ん朝師匠に入門。前座名「朝松」。2001年師匠の死去に伴い、志ん五門下へ。03年二つ目昇進、「朝太」に改名。
※ 9 六代目柳家小団治。1944年、東京都生まれ。
※ 10 三代目古今亭志ん朝(1938年〜2001年)
※ 11 五代目古今亭志ん生(1890年〜1973年)。三代目・志ん朝の実父。



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