談志師匠の直弟子の立川志雲さん。本場の関西弁で上方ネタを聴かせてくれる、東京在住の数少ない噺家さんの一人です。飄々とした語り口で、上方落語通のご年配のファンをうならせ、生で上方落語を聴く機会の少ない中年や若い観客の大爆笑を誘います。一度聴いたら、「志雲ワールド」にどっぷりはまること間違いありません。 |
――学生時代は水泳部で活躍されたそうですが、落語もお好きでしたか? 志雲 そら、好きでしたよ。小学生のときから。最初に落語を聴いたのはラジオですね。当時住んでいたのは徳島市の隣の小さい町やったんですけど、年に1回ぐらい落語会とか演芸会があって、大阪から結構な芸人さんが来てくれてたんですよ。もちろん、観に行ったりもしました。 中学・高校時代を過ごした神戸は、お笑いブームとか関係なく、テレビ、ラジオで演芸のレギュラー番組があったんですよ。今よりもっとね、寄席みたいな雰囲気の番組でしたよ。割合としては、落語より漫才のほうが多かったですけど。 ――そのころ好きだった噺家さんは? 志雲 枝雀師匠(※1)が好きでしたね。当時は大ブームでしたし。関西圏じゃ毎週土曜昼に枝雀師匠の番組があって、「枝雀寄席」いう1時間ぐらいの濃い〜番組も月1回、夜中にやってました。当時、うちにはまだビデオがなかったから、眠たい目こすったり、早めに寝て夜中に起きたりして観てたんは覚えてます。 ――当時から落語家になりたいと? 志雲 面白そうなお仕事やなあ、という感じはありましたよ。ただ、「絶対なるんだ」みたいなことはねえ‥‥。そない熱い人間やないんで‥‥。 ――入門を決意するきっかけは? 志雲 きっかけというより、サラリーマンにはなる気なかったし、特にやりたいこともなかったんで、高校を卒業して、さあ、どうしようかなと。演じるより聴くほうが好きやし、人前に出たいてな気持ちもそんなにないんですけど、落語が好きなんで、そこに携わりたいという気持ちが大きかったですね。どっちか言うたら、サラリーマンのほうが向いてるんですよ、たぶん。資質としては、芸人向きではないなぁと感じることはあるんですけどね‥‥。 |
――親御さんの反対はなかったんですか? 志雲 親は嫌がってましたよ。高校はいわゆる県立普通科で、ソコソコの進学率のガッコでしたから、大学行くやろと思ってたみたいです。 ――上方の噺家さんに弟子入りしようと思わなかったんですか? 志雲 枝雀師匠に弟子入りのお願いに行ったんですけど、「今(弟子を)取ってないんです」って断られて。「あかんのかあ、どうしようか」思うてたときに、うちの師匠の『あなたも落語家になれる』(※2)いう本、読んで「ここはなんや、お金払たらなれるんか。ほな、金払て弟子にしてもらおうか」と。今にして思うと大失敗や。人生、金で解決しよ思たら、あかんね。ええことひとつもない。 ――入門はすぐ決まりました? 志雲 「噺家なりたいんです」て手紙書いたら、「会いに来い」いうことになって。ソウルオリンピックのころですわ。88年。だから夏ですわな。何べんか会うて、「断る理由ないからええで」って。親の許可がないとあかん言うので、その年の秋に家元が大阪で会をやったとき、母親を連れていきました。楽屋でそば食うてましたね、家元。およそ江戸っ子の流儀とは思えない作法と箸づかいでそば食べてた姿を覚えてます。強烈でした、はい。 ![]() |
※1 2代目桂枝雀(1939年8月13日〜1999年4月19日) |
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