オーソドックスな古典落語をきっちり聴かせてくれる柳家右太楼さん。入門10年の若手ながら、実力は二つ目の中でも屈指と評判です。地域寄席などの右太楼さんの高座で落語の面白さに触れ、落語ファンになった人も少なくありません。落語との出会いや落研時代の思い出、落語への熱い想いを語っていただきました。(撮影:武藤奈緒美) |
(※柳家燕弥師匠が二つ目時代の2009年4月のインタビューです)「噺に”今”を入れることはしないですね。
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――大学の落研出身ですが、子供のころから落語好きだったんですか? 右太楼 そうでもないんですよ。勧誘されたとき、平仮名で「おちけん」て書いてある看板見て、意味わかりませんでしたから。 それ以前に聴いた覚えがあるのは、大学受験のころですね。おふくろがラジオで聴いて笑っていたのが、柳昇師匠(※1)の「カラオケ病院」という新作だったんです。経営に行き詰った病院が患者集めのためにカラオケ大会をやって、病気に合わせた歌を歌うっていう。次の週も同じ番組で落語を聴いたかな、それぐらいなんですよ。 ――では、なぜ落研に? 右太楼 先輩と気が合いそうだなと。入ったら、すぐにはまっちゃった。 ――初めて生で聴いた高座は? 右太楼 志ん輔師匠(※2)の「お見立て」です。寄席文字の師匠の橘右太治師匠が主催している蒲郡の落語会(※3)を、落研で手伝いに行ったときでした。僕の高座名の「右」は、右太治師匠のお名前からいただいたんですよ。雲助師匠(※4)に「これは真打の名前だよ」と言われたのも、うれしかったですね。 ![]() |
二つ目になって最初に覚えたネタも「お見立て」です。もちろん、稽古は志ん輔師匠につけてもらいました。 ――では学生のときから、落語家になろうと。 右太楼 先輩たちと飲んだりしているうちに「この世界にいたら面白いだろうな」と漠然と思い始め、3年の後半ごろには落研同期の錦魚(※5)と四六時中つるんで、落語家になる気満々でした。錦魚は当時から「談志の弟子になりたい」と言ってましたね。 昼も夜も落研の部室に入り浸って授業に行かないから、早々に留年が決まり、大学は4年で中退しました。単位を全部取るのに最低3年はかかる計算で、卒業すると落語家になるのが3年遅れる。それが嫌だったんです。 ――ご家族の反対はなかったんですか? 右太楼 親父は何も言わない人で、おふくろさえ落とせばよかったので、在学中から「噺家になりたいんだよね」と軽〜い感じで、におわせていたんですよ。最初は冗談だと思っていたみたいですが、「中退する」って電話したとき、おふくろが「噺家になるんでしょ」って。 中退してすぐ、落語家になるつもりで上京しましたが、いろいろ思うところがあって、1年半ぐらいフリーターをしていたんです。親に金銭的な負担をかけ続けるのは心苦しいし、東京の生活に慣れておきたいという気持ちもありましたから。 バイトがけっこう楽しくて、志を忘れたつもりはなかったんですが、流されてしまっていたんでしょうね。付き合っている女の子に‥‥ま、今のかみさんなんですが、「(弟子入りは)どうするの?」って言われて。それで入門しようと。 ――奥様も落研の同期ですよね? 馴れ初めをお聞きしたいんですが。 右太楼 付きあい始めたのは卒業の直前です。一緒に落語会に行ったのがきっかけで。 ――前から、おたがいにちょっと気があったとか、実は片想いしてたとかあったんですか?
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※1 五代目春風亭柳昇(1920年〜2003年) |
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