立川志ら乃さん―3


「中身のない企画で名前を売ろうとした時期もあったけど、芸事でやればいいことなんです」
志ら乃 当時は「孫弟子の二つ目昇進なんて夢のまた夢」みたいな雰囲気があってね。一門会の集客を兼ねて始めた「脱前座の会」で、私が勝手に「客に投票してもらって、年間を通して1位になった人が二つ目に昇進する」という企画をやったら、うちの師匠も乗っかってきたんです。私がダントツで優勝したんですが、その後も上位4人でチャンピオンシップや復活戦をやったりして、まず、こしら兄さんと志らら兄さん(※9)が5月(2002年)に二つ目に昇進し、その年の秋に私とらく坊さん(※10)が二つ目になることが決まったんです。
 そうしたら、立川流の他の師匠も「孫弟子も二つ目になれるんだ」と気がついて、志の輔師匠が「それならウチの弟子も」と、志の吉さん(※11)を二つ目に昇進させることになり、さらに、らく朝(※12)も加わったんです。こしらさんと志ららさんが昇進したときは、家元は「志らくがいいって言うんだったら、おれは見ない」と、昇進試験はしませんでした。ところが、その後どんどん増えたので、家元も心配になったんでしょう、試験をすることになったんです。私はむしろありがたかったですけどね。金もないのに歌や踊りを習いに行ったりして。声優の養成所に通い始めたのもそのころです。
――家元は歌や踊りが大事だと‥‥。
志ら乃 大事って言い方は語弊があって、「落語家なんだから好きなはずだろ」ってことですよ。だから「必死こいて勉強してます」なんていうのはダメなんです。下手でも、好きだってのがわかればいいんです。翌年、私と志の吉さんが二つ目に昇進し、不合格だったらく坊さんはやめてしまいました。
立川志ら乃
――最近、落語界全体ではNSC(※13)などお笑い出身の若手が増えて、落研出身者を上回る一大勢力になりつつあると聞いています。そういう人の中には、落語と並行して漫才やコントもやっていきたいという人もいますが。
志ら乃 発想は違うかもしれないけど、まさに私がそうですよ。そもそも落語家は何をやってもいい商売だから選んだんです。以前は不文律として落語家が落語以外をやることは許されない時代もありましたけど。だから私、落語だけやってませんでしょう。 →続き

立川志ら乃



※9 立川こしら=1975年千葉県生まれ。96年立川志らくに入門、前座名「らく平」。立川志らら=73年神奈川県生まれ。97年志らくに入門。
※10 立川らく坊。1997年志らくに入門。2002年卒業(廃業)。
※11 立川志の吉。1972年生まれ。兵庫県出身。97年志の輔に入門。
※12 立川らく朝。1954年生まれ。長野県出身。2000年志らくに入門。04年二つ目昇進。現役の医師。
※13 吉本総合芸能学院。大阪校、東京校がある。




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